2015年8月28日金曜日
一体に どこまでなるが 江戸の内?
有名な古川柳・・・・「本郷も かねやすまでが 江戸の内」
素直に解釈すれば、本郷は本来江戸府内ではなく、本郷でも一部(今の三丁目あたりまで)を
江戸府内というってことである。
古川柳というが、かねやすがベンチマークとなったのが亨保の頃
大岡越前が、江戸府内の建築基準法を改正し、耐火防火基準を強化したことによる。
藁葺や板敷きの屋根を禁止したんでしょうねえ。
春日通りと本郷通りの交差点に、この商店は現存します。
同じ場所での業歴三百年は・・・江戸ではさすがに珍しい。
看板代わりでしょうか、ビルの一階にこの有名な川柳の銘版をかけています。
芝にも、同名のお店があって、元祖本家争いをやったらしい(まあよくある兄弟喧嘩)
商号権争いですが、判決は大岡越前が書いたそうです。
芝は漢字、本郷はひらがなって裁定で、なかなか粋な裁きってことだったそうですが、
町方相手のドラッグストアですから、ひらがなが有利に決まっている。
いつの頃か知りませんが、芝の方は廃業してしまった。
名判決というなら・・・・「かね泰」と「兼やす」ってしないと・・・
だったら、どっちも潰れたかも(苦笑)
さて、江戸の北限が本郷三丁目あたりならば、東西の限界は?って疑問に思うものですが
これがよくわからない。
いまだって・・・
首都圏
都下
都内
都心 ・・・様々な言い方が有りますので、都のサイズとは難しいのです。
とりわけ、江戸の時代は、お奉行様の管轄権限が複雑でした。
江戸町奉行の支配地を江戸といってもいいが、お武家屋敷と社寺は管轄外
文政江戸朱引図なる古地図がある。
文政の頃だから19世紀のはじめ・・・江戸も末期とまでは言わないが後期である。
これが最古の江戸の行政区画図らしい。
墨引(内側)と朱引(外側」で囲まれており、内側が町奉行支配管轄みたいです。
おおむね、山の手沿線ですかねえ・・・
もっとも、山手線と言う以上、下町をカバーするように線路は引かれていないので、
正確に言えば・・・加えて「大江戸線」ということになる。
南北江戸奉行所には、それぞれ与力25人、同心百二十人程度
いくら民営化による民間活力の最大活用と言っても、少数精鋭でもないと行政機能は動かない。
それにトップだって情知主義による範文省略の政を施すとはいえ、それは下情に通じた人材を得た場合のこと。
勘定奉行は、計数に明るいテクノクラートでないと勤まらず、抜擢人事が当たり前だったが、
町奉行も、ある意味で似たところがある。
法匪のような輩が上に立つとろくな事にならないことは、
マツダイラミクスやミズノミクスの教えるところである。
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