2015年8月13日木曜日

よみ人しらず あるいは匿名の情熱



名を明らかにしないにはそれなりの理由がある。
本当に作者不詳の場合や、名乗るに値しない非セレブもあるが、多くはそれなりの理由がある。
ありていに言えば、広義の意味での「禁忌」に触れるがために、
それでも世に残したい、公開したいって場合のある種のテクニックとも言える。
自分で数えたわけではないが、古今和歌集には、異様なまでに「よみ人しらず」が多い。
四割程度といわれるが、多くは後世の本歌取りの元歌となった。
この勅撰和歌集が署名和歌のみで編成されておれば、その風景はさぞかし貧相なものだろう。
そうは言っても、勅撰集という場の担保力が無署名の意味づけの背景にある。



署名は正直になれない・・・・



NET世界の「無署名」には批判が多いし、けだしその通りである。
匿名をいいことに、悪口両舌の山。
トイレの落書きのほうがまだ品が良いと思う場合もある。
かといって、FBのように匿名拒否のサイトをよしとするものでもない。


上記の至言は、英国のジャーナリズム界に伝わるものらしい
調べてはいますが、出典等よくわからない。
しかし「匿名の本音」ってことは真によく分かる。
書きたくとも書けないことは山とある。
不都合な真実を書くことがジャーナリズムの使命だと思えば思うほど、
そのジレンマはあるに違いない。
結局のところは、割れ窓理論ではないが、前述のとおり「場の担保力」である。
実名、匿名で場のクオリテイが決まるわけではなく、むしろ逆である。
実名を担保にして場のクオリテイを標榜するほうが危なっかしく思える。




蝸牛庵狂言綺語録は・・・品位があることを標榜する健全サイトを目指しております。
従って、実名化する予定は全くなく「匿名の情熱」のみがエネルギーです。
NETの鵜呑みな孫引きはせずに、極力原典を確認することをモットウにしております。
辺境にこそ真実があると信じるサイレントマイノリテイでありたいって思っております。


以上が1日早いですが、「蝸牛庵版戦後七十年談話」です(苦笑)




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