2017年7月26日水曜日

孟子を読む(2)仁義編



儒教は中庸を重んじる。
今風に言えば「バランス感覚」
何事においても極端は宜しくないし、賛同が得がたく敵を作りやすい。
殊更に波風を立てるまでの事はない。

孟子は性善説を唱えたとされるが、性悪説との対比において
極端に理解されているようです。
努力すれば善人になれる、善人になりたければ努力しなさいというに過ぎない。
ヒトザルは性善でも性悪でもなく「性弱」だと訳知り顔に言うのも
正鵠を得ているとも思えない。
本性がどうあれ、実際の振る舞いがどうかということ。

儒教には「八徳」なる徳目がある。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つとされるが、
当然ながら重要性原則で並んでいる。
学ぶにしても八つは多すぎるし、時代により特に強調される徳目もある。

孟子的に言えば、最初の四つで充分なのです(一般に五常と言われますが、この考えには賛同しない)

仁 惻隠のこころ
義 羞悪
礼 辞譲
智 是非

憐れに傷ましく思い、悪しきことをはじにくみ、へりくだり、よしあしを見分ける
この程度ならば難しくはなさそうですが.....でも努力もせずと言う訳にはいかない。

とまあ真面目風な講釈はココまで(^.^)



あの社会の方々がことさらに「仁義」の看板を振りかざすのがよくわからない。
有りもしないから殊更に前に出すというのは有り気な説
辞儀が仁義に転じたと言う説があるが、
仁義(辞儀)をきる 程度ならばそうかもしれない。
任侠道なるものを体裁よくみせるキャッチコピーとしてフィットしたのだろう。

有りもしないものをあると言っていたのだから

仁義の墓場
仁義なき戦い

とかってタイトルも本当は可笑しいのです。
かくありたしと思う気持ちを棄てたところから始まるのが
本来なのです。

忘八という隠語めいた言葉がある。
全ての徳目から解放された或いは背を向けたヒトザルまたは稼業とされる。
一番の適語だと思うのですが、通例的にはそういう使われ方はしないらしい。



結構下卑な時代劇ですから、良い子にはすすめません(^.^)

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