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彼らが共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが何もしなかった。
彼らは社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが何もしなかった。
彼らによって学校、新聞、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
彼らはついに教会を攻撃した。私は行動した・・・・しかし、それは遅すぎた。
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ニーメラー牧師の有名な警句詩の一節ですが「川向こうの火事で自分には関係ないよねってことが段々に身近になっていく恐怖」の寓意
丸山真男氏の著作から一部修正引用しています。
今やデモクラシーとは無関心の代名詞である。
そうあってはならない仕組であって、総意を反映できる有意なシステムのはずなんですが、無関心が民意を歪める。
無関心ならまだしも品のない雑技サーカス紛いの笑劇に堕せば何をか言わん。
いっそ堕ちるところまで落ちて骨身に染みいれば多少は分かるかも
一方で「無関心という意思表示」という言い方もあるがそれは強弁。無関心のその果てに未来があった試しがなく、牧師の怖れる世界でしかない可能性が高い。
クラシックギリシアやローマは、政治参加に背を向ける多くの市民を想定しなかった・・・のか?
いやいや、想定したからこそ参加者を限定したのでしょう。パンとサーカスにしか興味のない連中はデモクラシー担い手どころか邪魔になるって(^^)
無念がってもしょうがないし、いまさら制限選挙に戻れない。
時代がそうであれば、そういうような制度設計をすればいい。選挙に行きましょう!だけをさけぶだけではあまりに能がない。
愚な候補者に投票する蒙な有権者の組み合わせこそ最悪
まずは選挙制度の革命的改革であるが、実現可能性には懐疑的です。
既得権益の打破は実に難しく革命でもおきないかぎり、、、つまり過激な言辞を弄する候補者に期待しては如何かってことになるのですが、議会を敵にまわすと、すぐさま寝首をかかれますから、その辺りの人誑しの才能が、、、
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