2024年9月26日木曜日

秋◯夕暮れ

  




東雲のころが肌寒く秋気分にやっとなりましたから、、、

秋の夕暮れ
秋は夕暮れ


助詞一文字に過ぎない差異だが、かなりの違いがあると思うのですよ。

毎年毎月毎日に「夕暮れ」はあるんだから、、、たまたま今だから「秋の夕暮れ」なんだわさあってのが、前者の気分。

ぶっちゃけ秋でなくとも夕暮れは夕暮れ。

秋はなんちゃって「夕暮れ刻」
曙のころも、朝早くも、夜の闇も夕暮れには如かず。
と同時に秋以外の夕暮れってそれほどのものじゃないのよって独善的。
でも、秋の夕暮れの何処がいいのよ?


.... 

秋は夕暮ね。

夕日がさして、山の端にすごーく近くなったとこにさ、烏が寝るとこに帰るんで、三つ四つ、二つ三つなんか、飛んで急いでいくのさえいいのよ。ま・し・て・よね。雁なんかのつながったのがすっごく小さく見えるのは、すっごく素敵! 日が沈みきっちゃって、風の音や虫の声なんか、もう…たまんないわねッ! 

....


枕草子のあまりにも有名な一節を、稀代の才子である橋本治が桃尻娘風に超訳すればかように(^^)

そこで、無謀ながら三十一文字にすれば、、、


かりからす

飛び去る 夕陽黄昏れ闇に

松籟虫の音 夕暮れぞあき


、、、だと特異な審美眼の持ち主である「納言」は、これみよがしに自慢の知性と教養をさらけ出したの。
確かにほかの季節じゃ味わえない(^^)

万葉びとや平安人が、共通して「秋夕暮」の美意識を持った訳ではなく、言わば「清少納言が発見した」ということ
とりあえず、万葉集と八代集の字句検索を行うに、、、、万葉集はもとより古今和歌集(更にその後の後撰、拾遺にも)にはそのカケラもない。やっと後拾遺和歌集(11世紀末成立)で登場し、新古今に至り、あちこちに秋夕暮の山々

納言が宮中住み込みのキャリアウーマンだったのは10世紀末頃までですから、美の共通認識化はそれ以降なんです。

けだし、枕草子には「あきは夕暮れ」と書かれてあり「秋の夕暮れ」ではない。

だっから、、、「ナンタラカンタラ秋の夕暮れ」なる和歌は四句目が和歌としてのコアコンピタンスであり、上句はその修飾ないし説明みたいなもの。
秋の夕暮れなる和歌、、、八代集には37首(数え間違いが無ければ)ありますが、鑑賞方法や評価方法はそう言うこと。
どこにでもある秋の夕暮れなんですけどね、ナンタラカンタラなんだから「秋は夕暮れ」だと、、ひときわ身に染み入るんですー


0 件のコメント:

コメントを投稿