なんて俚諺も昨今は、、、
春来ればすでに夏の気温だし、秋に至れどいつまでも炎夏の残り気配
せめては、王朝和歌の世界から「秋の気配」を
この寝ぬる朝けの風の
少女子が袖振る
山に秋はきぬらん
秋来ぬと
目にはさやかに みえねども
風の音にぞ 驚かれぬる
秋といえど
木の葉も知らぬ初風に
われのみもろき 袖の白玉
まずは、後鳥羽帝(續後撰集 秋上部)
上句は序詞であり「袖振る山に秋」がやってきたという万葉調にしておおらかなスメラミコト風
袖ふるは、万葉集によく登場する常套句であり、後年本歌取りによく採用されたが、親愛の情をこめて送り出すあるいは迎え入れるという古代的な呪術的な風習だと識者は言います。
立秋の日の朝ぼらけの頃、少女が袖を振り秋を招き入れる、、、なんとも気分の良くなる和歌。
二番目は、誰もが知っているだろう古今和歌集秋上部の巻頭歌。作者は藤原敏行なる下級貴族歌人
視覚では感じえないが聴覚で秋を感じるって、、、
ヒトザルは視覚で八割の外部認識を行うと言われるが、敢えてそれを捨てて古代の呪術性を思わせるような感覚認識がこの和歌のキモ。
理が勝ち過ぎるって批難もされるし、理知的と讃賞とされるだろうし、、、、
三番目は、、、定家三十三歳の頃の作品
絢爛にして鋭敏な技巧の冴え渡る絶頂期の作品。彼の秋の和歌は秀作ぞろいであり、不幸にして全ての勅撰集から敬して遠ざけられた。
不採用にも理由がある。
秀句表現の食傷気味的連発(この葉も知らぬ われのみもろき)は消化不良を起こしますからねえ(^^)
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