2024年9月14日土曜日

ついでに、、、自転車のはなし

 



最良のエコ輸送手段だと言われるが、そういい想い出ばかりでもない。
お仕事始め(最初の勤務地)は、大阪湾の海岸近くの工場だった。
今はテーマパークに敷地の一部(半分くらいかな?)を譲渡したが、当時は結構広大だった。
工場内の移動手段は「自転車」
堅牢だけが取り柄みたいな代々引き継がれてきた「社用車」である。
別の工場勤務の同期生は、同じ社用車でも四輪を乗り回している。
我が身の不幸はここに始まったようなものだ。
しばらくは自転車には乗ろうとは思わなかった。
だから、この映画も好きではない。

自転車が抑圧解放のシンボルだと言われるのはまさにその通りだ。
戦後の頃の明るい一番の輝きの映像化としては、最高の部類だろう。
しかし、嘘っぽい(笑)
昭和30年頃の自転車の値段は一万五千円くらい。
当時の月給が一万円そこそこ。
今でもクロスバイクなら、それ位は廉価だろうが、
戦後間なしの高校生の普段使いと思えば、あり得ない光景としか見えない。
いまから思えば、戦後の自由とか平等とか民主主義って価値観もそういうフィクションだったのですってことの間接証明に違いない。


第二次世界大戦の欧州戦線の華は、戦車を主体とする電撃戦。
機動力と火力が勝敗を決める。
戦車の初登場は、第一次世界大戦のころで、騎兵将校団に馬鹿にされながらも、おずおずと登場し、なんとなく役に立ちそうな気分を与えた。
1910年代までが騎兵の時代。以降は戦車の時代である。
にもかかわらず、愛馬行進曲なんて軍歌があるところをみれば、皇軍ではまだまだ第一線で活躍していたらしい(正しくは愛馬進軍歌であり1939年のリリース)
無事戦地から帰還された近所のおっさんは・・・「馬のほうを大事にしやがって」って怒ってましたが、そりゃ当り前でしょう。


司馬さんの「坂の上の雲」では、対露西亜戦勝利の要諦は「コサック騎兵隊とバルチック艦隊」の撃破にあるとされるが、後者はともかく、満州の大地で華々しい騎馬戦があったようには描かれていない。
大量生産型の機械工業の裾野の広がりのない倭国のこと。
明治維新があと二十年遅れていれば、日露の戦いはどうなったか分かったものではない。



しかしながら、軽機械工業の分野となれば、倭人の得意分野。戦前の自転車産業は輸出の花形でもあり、東南アジア地区に手広く販売されたようである。
太平洋戦争において、機動力において圧倒的に劣位な点を補強するための「苦肉の策」が銀輪部隊。
どうも、現地で大量に自転車を接収して部隊編成を行ったようである。
マレーシア半島を銀輪を煌かせて疾走する自転車部隊って・・・・まあ絵になったのでしょうねえ。
首尾よくシンガポールを短期間で政略できたことにいささかの貢献はあったようです。
同様に、マニラ攻略でも成果を出したと言われるが、バターン半島での「捕虜虐待」の汚点により、あまり語られることはなく、
その後、自転車の活躍を聞くこともなくなった。






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