江戸時代は、外食天国だったらしい。
江戸後期の飲食店の数が、かの名店である八百善に始まり屋台の蕎麦屋までふくめ七千軒程度。
当時は単身赴任なお武家やら、食い詰めた裏長屋の町奴がごまんといました。
食い物屋も玉石混交ながら商売になったようだから、女日照りの江戸は相当なブスでもモテたことに似ている(^^)
いまでも、その伝統なのか石を投げれば食い物屋にあたるのが、今の東京。
数だけ言えば六万軒あまりで、人口十万人あたりで、五百軒だそうです。
いわゆる「飲み屋」は別カウントというから恐れ入る。
内藤湖南先生は「日本史は室町以降だけ学べば良い!」と喝破する。
しかし、およそ食い物に関しては、江戸以降で十分だが、比較対比的には、室町食文化のお勉強も大事と思うので・・・
さて、戦国武将の夕食を再現すれば、お皿の数だけは、毎夜たくさんです。
主菜用に三皿、あしらえなんかに小皿が三つばかり。
あとは、ご飯茶碗ですが、汁椀はなかったみたい。
主菜は日本古来の三代珍味。
梅干、鮑、水母・・・って明石散人がなんかに書いてました。
あしらえは、塩、酢、味噌の三点セット。
戦国武将の晩餐とはこんなもんです。
長屋の御家人くずれの一椀一汁一菜みたいな品さがる食い物とは一線を画する平安貴族の流れを汲む典雅な御食事なんですが、いまの舌感覚からすれば、ちょっと耐えられない。
江戸時代の随筆なんか読んでますと、この時代は「食材物革命期」だった。
清酒
醤油
出汁
これらの食材を抜きにした和食の風景って・・・ひどく違和感があります。
その意味で文化遺産たる「和食」と豪語してもその歴史はたかが200年程度に過ぎない。
まっとうなフレンチはイタリアを濫觴に16世紀に始まり、中華料理の真髄は更に歴史を遡り・・を思えば、和食を含めて三大料理と自慢するのは夜郎自大という。
食い物に対する熱心さ・・・というか執念にかけるようです。
職人のあくなく探究心なんて、その辺のやらせサイトの言い草。
生き物と名が付けば、なんでも食材にする。
いざとなれば、我が子でも・・・って、易牙を筆頭に、中華料理のコックさんはど外れているし、そこまでの情念がないと三大の名に値しないし、それをもってあくなき探求という。
旨そうな店ですね♪
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