2015年3月7日土曜日

推定「有罪」



刑事事件の第一審有罪率はなんと99%だとか・・・
世界に冠たる有能無比な検察集団。
しかし、村木さんの例の事件以来、ちょっと怪しくなった。


刑事訴訟手続では「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従う。
従って、犯罪の証明責任は検察官の責務である。
悪魔の証明とは違い「あることの証明」ですから、そう難しいわけではない。
一般的にその証明のレベルは「合理的な疑いを入れない程度」とされる。
それ以外にも、なんだかんだと検察官は挙証しなくてはならないが、まあそれはいい。



・熊谷市の事件で、殺人、非現住建造物等放火の罪に問われた無職男(被害者の長男)が
 裁判員裁判の判決で(求刑無期懲役)となった。

・贈収賄に問われた美濃加茂市長が無罪判決となった。


 
刑事訴訟手続での「証明」は上記の通り「厳密な自然科学的に一点の曇もない・・」ってことではなく、
裁判官の専門的技術・能力を信頼して、その自由な判断に委ねることで真実発見に至るってことですから、
これらの裁判では、裁判官(裁判員)の納得が得られるような論証を検察官ができなかったって
ことになります。
結果として警察の捜査にも落ち度があったってことである。



まずもって「警察や検察の能力」の低下があるのかもしれません。
脚光を浴びる事案ですから、功名心に走り、予断をもった捜査をしたのかもしれません。
弁護人の腕前次第って部分もあります。
無罪請負人のような刑事弁護士が被告サイドにつけば、それだけで相当に有利です。
 


そもそも「刑事事件である以上有罪であらねばならない」と考えるべきものかどうかという点では
様々な議論がありそうです。
とにかく疑わしいからしょっぴいてお白州に座らせてから・・・というのは相当に乱暴ですし、
人権侵害の疑いもある。
一方で、完璧に近い有罪率を背景に「推定有罪」な記事を垂れ流す大マスコミは、
傲慢であり、実質判決文を書き散らしているようなもの。
一転、無罪となれば、手のひらを返し、警察・検察批判を繰り返す鵺。
こんな不逞の輩がのさばる社会がまともとも思えない。
黒白の判断を行うのは、神の代理人たる裁判官の裁量(・・自由心証主義と言います)だけ


ここまで書いて思い出すのは・・・アメリカTVドラマの「逃亡者」

リチャード・キンブル。職業医師
正かるべき神も時として盲ることがある。
彼は見に覚えのない妻殺しの罪で・・・


正義の女神(テミス)は、目隠しをして天秤と剣をもつ。
天秤は善悪を測る「正義」であり、剣は「力」を象徴する。
法は「正義と力」により担保されることを意味する。
目隠しは神が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず、
万人に等しく適用される「法の下の平等」の法理念を表す・・・らしいが

冤罪で全米を逃亡するキンブル医師にとっては「目隠し」とは、そんな美しい法理念ではなく
正義と力の虚妄さの象徴でしかないと思っていただろう。



実際には、目隠しをした女神としていない女神がいます。
それぞれに意味する立ち位置が違うのでしょうが、ちょっと含蓄深いテーマです。









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