2016年2月27日土曜日

汨羅の淵に波騒ぎ


昨日は2月26日。
政治テロの首魁として断罪された男が作詞作曲した歌があります。
もっとも、この事件ではないが・・・・戦後になっても、クーデターの夢が忘れられなかったようです。

彼らに思いを馳せつつ・・・なんて感傷はまるでなく、昨日たまたま目にした「昭和維新の歌」
漢文の知識(実際のところはライト系の文人たち作品の剽窃)を駆使した「反知性的」な軍歌であり、
古代中国の屈原の伝説をモチーフにしていることを初めて知った。
今時サラリと読めるほうがどうかしているし(実はちゃんと読めます・・苦笑)、
読めなくとも「自称エリートの思い上がり満載」ということはだいたい想像できます。


地位のあるやつもカネを持つ奴もみんな腐っている
大衆は愚だ
世直しができるのは俺たちだけだ
議論は終わった、さあテロルぞ!


街宣車の大騒音でも聞いたことがないので、内容は理解できても当然歌えません(笑)
しかし、ある種レフト系の革命歌の近親性を感じます。
なんとかを考える会とかうんちゃら市民の会が
シュプレヒコール同様にガナっても多分に齟齬感がないという点が実に面白い。
立場が違うように見えても、根っこは同じ。
倭特有らしいが「転向という風景」は、特段おかしくないってよくわかります。


ホフスタッターの「反知性主義」がちょっと話題中
正確に理解されているのかどうかは疑念があるのですが、
1950年台の赤狩りは「伝統的宗教性」に起因するって喝破したとされます。
これをもって「論理や理性とは無縁」なバカの代名詞のように反知性主義を使うからことはおかしくなる。
ちょっと歪んだ解釈をすれば、反知性主義とはエリートの劣化への警鐘だと思っています。

多岐多様なヒトザルに対して、論理と理性をもって理解させ説得する地道な努力ないし能力を駆使し得なくなった
エリートの最後の武器はポピュリズムしかない。
いまどき、クラシックギリシアのデモクラシーの物語なんかが刊行されるということが、
不安な未来の予感です。


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汨羅の渕に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思う心なし

ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花

古びし死骸乗り越えて
雲漂揺の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと
吹くや日本の夕嵐

ああうらぶれし天地の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰が高楼の眺めぞや

功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

やめよ離騒の一悲曲
悲歌慷慨の日は去りぬ
われらが剣今こそは
粛清の血に躍るかな





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