2016年2月5日金曜日

反「知性主義」なるもの


ホフスタッターの有名な著作のタイトルだけがさまよっているって思うのですよ。
なんちゃって便利な言葉ですから、使っているだけで知的な気分に浸れる。

そもそもが1950年台の赤狩りの根っこにあるものをえぐりだした概念への肉薄ですが、
宗教的保守性に由来するとホフスタッター先生はいうのです。
しかし、今は別に宗教に限る必要もなさそうでして「無意識無批判的に内面にある伝統的保守性」を
基盤とする行動様式批判として使われます。
こんな歴史的著作が、半世紀余りを経て世の中を席巻するのは、
あの赤狩りの時代のようなヒステリックな時代の危機が今そこにあるって言いたげです。
エキセントリックなデマゴークが跳梁跋扈し、つまらんことを針小棒大にメディアスクラム的に騒ぎ立てること
またそれに迎合することで増幅されるのが、まっとうな社会とも思えない。


ヒトザルとは論理も情緒も多岐多様であり、対等に付き合うには理性しかない。
論理的に客観的に説得し理解させ、それを受け入れさせるのが正しかるべき社会のありよう。
目配せや阿吽の呼吸なんかに依存する・・・言い換えれば「空気が支配する」余地は本来はない


趣旨は分かるが、一体誰が「理性的であれ」と教えるのだ・・・?
三尺さがって影を踏んではいけないと思わしめる教師に恵まれなかった者たちは不幸であった。
知のエリートが、高校の先生を当たり前のように務めるような国は羨ましい・・・
ベルグソン、サルトル、ストロースなんかは、フランス国の高等学校の哲学教師であった。
多分ですが、部活だけで消耗させるような使い方をされていなかったのだろう。
しかしですが・・・今のフランスだって、空気の支配する国家かもしれませんがね・・・・


悪しき衆愚主義化への警鐘という文脈なんだろうが、
反知性主義とは「エリートに対する疑念」という立場を意味し、
その意味では反知性だって知的で理性的のはずなんですが、どうもそういう使い方がされない。
寅次郎が妹婿を揶揄するような虫の目線はそれ自体小馬鹿にするものではない。
ある種の健全な社会通念のようなものでもある。
今憂うるべきことは、エリートの劣化ではないのですか。
いまどき、クラシックギリシアのデモクラシー(デモクラティア)の興亡についての
著述が刊行されるとはそういうことだろうと思っています。






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