2018年7月13日金曜日

マタイの福音書...譚






...群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」
すると、民衆全体が答えて言った。
「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」
そこで、ピラトは....



本福音書の山場であるキリスト裁判。
検事の起訴状がありませんから、罪状はよく分かりませんが、
反体制派思想犯だとされたようです。
あの懐かしい全共闘の議長みたいなものでしょう。
パゾリーニの「奇跡の丘」の解釈はしかり

所詮はイエス一派はマイノリティですが、ローマ属州の悲しさ。
司法権は総督の手にある。
ピラトの出自は、有産ローマ市民ですから、ユダヤ人ではない。
ユダヤ人内部の内ゲバに関与したくはないし、
有罪とは思ってもいなかった...ように書いてます。


このピラトの態度は許されない。
裁判官が「黒白つけ難い・つけたくないから判決を出さない」と言わんがばかり。
訴の利益がない、原告適格がない、管轄違い...
まあ、逃げ口上は色々用意されていますが、早い話が
私刑に委ねるというか職務放棄を行なったのです。


しかし、この記述は歴史的な事実なのかなあ?
だとすれば...いやそう後世のヒトザル達がそう信じたからこそ
神の子殺しの民族だと長く(今でも)迫害をされてきたし、
迫害する側の錦の御旗でもある。
迫害の累積値からすれば、イスラム難民や植民地被害の比ではない。


作者は本当にマルコかどうかは知りません。
誰でもいいのですが、ローマ人を免罪したが故に、
これが正典とされたことは確か。
禁教から外れて国教化の果実を得るためには、なんでもありって
考えるのは罪かなあ。
宗教が清廉無垢である事は知っていますが、
そうでない黒歴史があった事も知っています。

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