論語だとこうなりますが、キリスト教では、、、、
さらば凡て人に爲られんと思ふことは、人にも亦その如くせよ
マタイ福音書の余りにも有名な一節(第七章の12)
多くの宗教あるいは倫理哲学に於いても同様なものがあるようでして、いわば「絶対的な倫理言明」。でもこの「黄金律」なるものはそんなに大それたものかしらって天邪鬼は思うのですよ。
原作は以前に読んだが、映画では舞台は長野県の諏訪あたり。主人公の松山ケンイチは諏訪星稜高校らしき名門校の卒業という設定。
有り体に言えば、介護士による要介護者の大量「殺人」事件のものがたり。まるで相模原やまゆり園の植松聖死刑囚を彷彿とさせるが、その背景は全く違う。
誤解を恐れずに言えば、植松は杉田某女と同じでナチス的優生思想の持ち主。某女との違いは実行の有無だけ。
他方松山ケンイチは「殺人ではなく救済」を行なった、、、と主張します。
世の中単純じゃないし、それぞれのヒトザルのやって欲しいこと、やって欲しくないことって多岐多様なんですよ。例として、要介護の親を抱えて苦しい生活を余儀なくされる坂井真紀と戸田菜穂。
少なくとも坂井は親の死により熟年再婚という人生のリスタートができるようになり、内心松山に「感謝」しているが、戸田は法廷で松山に怒りの罵声を浴びせる、、、
松山を起訴する長澤まさみ検事なんだが、、、正義と公平を実現する法秩序の立場を離れれば、そんな綺麗事を口に出来る立場でもない。
キャッチコピー的には「迫真の取り調べとか白熱する激論」となるのだろうが、ディベートとしては松山に分がある。勝ち負け関係なく判決は死刑以外あり得ないし、死刑廃止論の根拠を松山は超越している。
車椅子生活の認知症の母親は高級系介護施設に任せたままでたまに差し入れをもっての面会だけで皮膚感覚で介護の修羅場をわかってはいないし、離婚した父親とは義絶状態。コンタクトを求める父親を拒否したまま(あるいは結果)父親は窮乏の果てだろうなあ、、、孤独死。
原作は内容のシリアスな割に黙示録的ではない(作者にはその意図があるのだろうが力足らずかな)
大量殺人の疑惑の発端が、数学科出身の検察事務官の統計解析的ひらめきってミステリーらしい面白みは残念な事にバッサリと刈り込まれたが、松山の最初の殺人が父親であった事、検事が女性に設定された事、検事の父親のエピソード等は映画版での脚色により、ものがたりに深みがました事は事実。
監督さんは、コンスタントに興収10億超えの実績の持ち主だし、これもコケはしない、、、が、春休み時期でジャニーズ系やアニメはごった返し、こちらは辛気臭そうなお客ばかり
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