2019年5月20日月曜日

鵜殿の葭原




935年の二月十日、帰京する貫之は鵜殿に泊した。
土佐日記には、何故か宇土野と書かれており、あの鵜殿(高槻市)が
素直に連想できなかったのは不覚というもの。
かの旅日記に登場するから有名な地名ではなく、
いまとなっては珍しい広大な葦原(葭原)が保存されているから有名なのだ。

紛らわしいが、葦と葭は同じものだそうです。
漢字変換ではどっちも正しいが
古典的には葦(あし)
しかし、悪しは宜しからぬって事で葭(良し)に改名させられたって
なんの役にも立たない雑学のトレビア。
あちこちの吉原なる地名もかつては川辺の葦生い茂る場所だったに
違いない。

西洋はかような言葉の言い換えをしなかったから
葦(REED)のまま。
どの程度身近なものだったかは詳らかにしないが、
パスカルは、ヒトザルは葦だと喝破した。
そのココロは...

嫋やかで弱い
風や空気に流されて右顧左眄

これだけならばろくでもないが、葦は考えるから
意義がある。
考えないならばやはり...ロクなものではない。
考えるとは手や足、体をうごかすことで
単に沈思黙考する事ではない。
ヴィントゲンシュタインは言った。哲学とは行動だ!
アメリカンには、沖仲仕の哲学者すらいるではないか。


木管楽器は、口に薄片をつける事でその振動が音になる。
その薄片をリードと言うが、材料の葦に由来する。
和楽器の篳篥は、葭を使う。
かつての楽人は好みの葦や葭を探し歩き、
自分で削り出したはずだ。
それなりのレベルともなれば、楽器を吹くよりも
リードを削っている時間の方が長い(...と昔の題なしである奏者が言うとりました)
しかし、最近は既製品を使うらしい...

音楽家の堕落のはじまり





0 件のコメント:

コメントを投稿