2019年10月12日土曜日

篤く三宝を敬って欲しくば...



聖徳太子...じゃなくて、厩戸皇子の手になるとされる十七条の憲法
その第二条に曰く...篤く三寶を敬え

十七もあるルールの二番目ですから、最重要のひとつだという事。
論争と思弁に鍛えられた学僧は様々に講釈するが、
優れてシンプルなテーゼである。

仏とは、釈尊(ゴータマシッタルタ)に決まっている。
少なくとも太子はそう考えたはずだ
多少解釈を広げて、悟りを開いた慈悲深い人格者まで
含めても誤差の範囲と我慢しよう。

法とは、仏の教え
釈尊ならば、四諦と言われる四つの真理のこと。
さまざまな仏がさまざまに説法をするから、
真理もさまざまでも構わないが、原点は四諦のはずだ。

僧とは、菩薩のような生身の坊主だと思っていたが、
教団組織の事のようです。
仏に帰依し、法を遵守し、それらを維持管理する組織は...
まあ尊いのでしょう。

しかしである。
西洋史に名高い「コンスタンティヌスの寄進状」
数世紀にわたり王権と教権の関係を歪めた偽書
要するに、ローマ帝国と皇帝の全ては教会に帰属するって
とんでもない内容。
近代は、偽書である事の証明に始まるようなもので
ルネサンスと時期を同じくする。
経済学的にはなんの付加価値も産まない宗教組織だって
霞を食っているだけでは存続しがたい。
所詮はカネメの強欲な宗教であり、愛の教えが聞いて呆れる

とかなんとか切支丹を罵倒するのは容易いが、
江戸の仏教やこの後継である今の仏教界が、
偉そうな事を言える立場にはない。
家康が慶長十八年に布告したとされる...御条目宗門檀那請合之定
実は偽書


公式に認知されている寺請制度以上の苛烈な支配を容認しています。
江戸時代の寺とは法務局のようなもの
本業は葬式だが、あれは死者のためのもので
生きている民衆に対しては

身分保証(切支丹でないことの証明)
パスポート(道中手形)の発行

お寺を怒らせると、伊勢参りが出来ないし、
寺の保証がないこと、すなわち無戸籍者であり
不利益の被り方が半端ではない。
切支丹取締令により火あぶり獄門にもなりかねない。
お寺を怒らせないためには...
お寺の言うがまま、参拝、年忌法要、勤労奉仕、様々な寄付を行う
従僕になること
それに寺請証文(身分保証書)は毎年更新だから、
今年のお寺への貢献が少ないと、来年の更新が難しいとかなんとか...
生きているうちは膏血を搾り取り、
死ねば、葬式や年忌の法要で更に...
村八分になっても葬式の付き合いは別とされるが、
寺の嫌がらせは苛烈
我が家には戒名をもたないご先祖さまがおわします。
俗名だけの位牌はあるが、過去帳には記載がない。

これが今の離壇ルールにつながり、墓仕舞いには
法外な金員を当然の如く要求する。
斯様な「僧」を篤く敬う...気がしれない。

だからアタシは、在家私度僧のままで充分

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