2022年12月28日水曜日

越後の豪農のあるエピソード

 



越後阿賀野川流域にその博物館はある。豪壮ではあるが、華美饗奢な雰囲気はなく質実さを感じさせる。



初代伊藤文吉が小作の身分から本百姓になったのは18世紀半ばのころ。勤勉篤実であったのだろう、大家から一町歩の田畠を分与され、代々才覚もあり放蕩や投機で家産を蕩尽する事もなく明治大正には千三百町歩の大地主となった。

戦後の農地改革で田畑は失うが、本宅や和庭園は財団法人化され今に残る。

鬼滅の刃の産屋敷邸のモデルかどうかは知らないが、、、この和庭園築庭のエピソードは知っている(多分事実だと思うが出典を忘れた)


何代目の伊藤文吉の頃かは知らないが、越後が大飢饉となった。強欲な賤商ならば売り惜しみや高値販売、慈悲深い地主ならば炊き出しや米味噌の配給。

しかし伊藤家当主はいずれでもなかった。近隣の民草に触れを出し大規模な築庭造園をくわだて、日当として相当の米味噌を支給し、、、餓死者を出す事なく飢饉を乗り切ったと言われている。


まことに示唆に富む話

何事もただは良くない。

こころを荒廃させると信じて疑わない。

武漢病毒禍に起因する様々な給付金の累計総額は17兆円に及ぶらしい。

その全てを否定はしないし、この給付で命や商売が助かったことも多々あるだろうが、その逆もある。

一時的緊急避難的施策が恒常化し給付の継続の大合唱たるや、、、人としての矜持はどこへ行ったのだ。

やっぱり多くは「間違ったバラマキ」だったということだ。





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