脚本と脚色は、言葉の使われ方が多義的であり、あまり厳密に使われる事はない。
脚色といえば、映画や舞台に使われる台本を作り上げるアクティビティを意味し、脚本はその結果としての有体物。
本家のアカデミー賞には
脚本賞
脚色賞
に峻別して栄誉の授与がなされますが、倭國のそれは脚本賞一本です。
厳密な区分は多少困難な気もしますが、オリジナルストーリーならば「脚本」、オリジナルを映画用にアレンジすれば「脚色」、、、つまり、作曲と編曲の関係に似ている。
多少「困難」という意味は、、、
蜘蛛の巣城
ウェストサイド物語
を対比すればなんとなく分かる。どちらもシェイクスピア劇が基層にあります。
蜘蛛の巣城は、マクベスを倭國の戦国時代に移し替えただけでストーリーもシーンもオリジナルのほぼそのまま。
しかし、ウェストサイド物語がロミジュリを下敷きにしていると言われてはじめて気がつく。対立する組織の若い男女の悲劇的な恋愛には違いないが、それだけならば「よくある三面記事ネタ」
前者は明らかな脚色だが、後者はどうなんだろう?
以上までは、毎度の長いマクラです。
映画賞の授与分野をどう設定するかは優れて政治的であり、プラグマティズムでもある。
かつては実写版とアニメ版をまとめて作品賞としていたが、今は別々。そもそもが別物だし、まとめて競わせれば実写版は総崩れになりかねない(^^)
脚本賞と脚色賞を区分しないのは致し方のない現実がある。
文藝に於けるヒエラルヒーからすれば、詩歌は別格として、まずは小説(今はコミックが肩を並べる?)
戯曲の地位は低いし、況や脚本なんて、、、
アメリカンは戯曲作家は重んじられます。ノーベル文学賞作家であるオニールはズバリ戯曲作家。フォークナーは一時期ハリウッドのシナリオライターだったし、歴史に残る傑作もモノにしています。
翻って、倭國の映画のオリジナルで幅をきかすのはコミック。オリジナル脚本なんてレアもの。
つまり脚本賞なんかもうけても選べる程質と量が担保出来ないっていうお家の事情。
逆に言うと、脚本家を粗末に扱うから質と量のレベルがあがらないという事でもある。
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