2023年11月10日金曜日

あきは、、、夕暮れ(1)

 



秋の夕暮れ
秋は夕暮れ、、、助詞一文字に過ぎない差異だが、かなりの違いがあると思うのですよ。

毎年毎月毎日に「夕暮れ」はあるんだが、、、たまたま今だから「秋の夕暮れ」なんだわさあって前者の気分。ぶっちゃけ秋でなくとも夕暮れは夕暮れ。

しかし、そう言うと、身も蓋も無い。


秋はなんちゃって「夕暮れ刻」

曙のころも、朝早くも、夜の闇も夕暮れには如かず。

と同時に秋以外の夕暮れってそれほどのものじゃないのよって独善的。

でも、秋の夕暮れの何処がいいのよ?


山の端に夕陽かたぶき

ねぐらに帰り急ぐ鴉や空高く連雁

夕陽入り果てて、視覚から聴覚の世界になれば、風の音や虫の音


、、、だと特異な審美眼の持ち主である「納言」は、これみよがしに自慢の知性と教養をさらけ出したの。

確かにほかの季節じゃ味わえない(^^)


万葉びとや平安人が、共通して「秋夕暮」の美意識を持った訳ではなく、言わば「清少納言が発見した」ようなもの。

とりあえず、万葉集と八代集の字句検索を行うに、、、、万葉集はもとより古今和歌集(更にその後の後撰、拾遺にも)にはそのカケラもない。やっと後拾遺和歌集(11世紀末成立)で登場し、新古今に至り、あちこちに秋夕暮の山々(^^)


納言が宮中住み込みのキャリアウーマンだったのは10世紀末頃までですから、美の共通認識化はそれ以降なんです。

しかし、枕草子には「あきは夕暮れ」と書かれてあり「秋の夕暮れ」ではない。

断定的な決め打ちめいた詞章は言葉がキツいって事なんでしょうか?

探しましたが「秋は夕暮れ」なる詞章は何処にもなかった。


だっから、、、「ナンタラカンタラ秋の夕暮れ」四句目が和歌としてのコアコンピタンスであり、上句はその修飾ないし説明みたいなもの。

秋の夕暮れなる和歌、、、八代集には37首(数え間違いが無ければ)ありますが、鑑賞方法や評価方法はそう言うこと。

どこにでもある秋の夕暮れなんですけどね、ナンタラカンタラなんだから、ひときわ身に染み入るんですー



To be continued 

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