そりゃそうですよ
あまりに当たり前...なんですが、これは世阿弥師のお言葉。
隅田川と言う能楽の名曲があります。
ジャンル的には「子別れ狂女もの」
行方不明になった我が子を気も狂わんばかりに煩悶しながら探し求め...仏の功徳で無事再会し....後世は幸せに暮らし....たかどうかまでは演じられないが、能の御約束通りハッピーエンドに終わります。
しかしこの「隅田川」は悲劇です。
演劇論での「悲劇」とは意味合いを異にしますが、紅涙を絞るような哀しいおはなし。
伊勢物語の隅田川の渡しのエピソードを上手くあしらった一幕三場もの
演劇論ではギリシャ悲劇と能の比較論が語られますが、、、天を仰ぎ我が身の不幸を訴えるギリシャ悲劇に対し地に向かい呪詛を呟く能....とかなんとか
ウケ狙いの対比に過ぎないし、上を向くか下を向くかは劇場の構造による。
ギリシャ悲劇の言う「悲劇」の特性とは....
不幸の連鎖、、単に不幸だけならば悲劇とまでは言わない。
良かれと思った事が裏目にでて、そのリカバリーがさらに裏目になり、どんどん奈落に落ちていくカタストロフ、、、
だと三島だか蜷川が言うとりました。
誰でもいいが、けだし悲劇とはそんなものであり、斯様なエレメントは能にはない。
倭の文化ならば、悲劇性の極致を様式美満載に描いたのが東映の「総長賭博」
これを超える任侠映画はない...とキッパリ!
が、オールタイムベストからは無視されています。
本当に、、◯◯◯千人にめあきは僅か(伏せ字にする方が差別的なんだがなあ.....)
そのうちに「気の触れた女性を登場させる演目」はマイノリティ蔑視や差別だとジンケンハが騒ぐだろうかもしれないなあ...と幕間の戯言で論旨を戻します。
この作品は、世阿弥の息子さんの元雅の手になるが、演出方法をめぐってかなりな諍いがあり、不和確執の遠因とも言われます。
人買いに拐われた我が子が既に亡くなったことを知りますが、悲嘆に暮れ南無阿弥陀仏の読経を行なっていると、我が子の亡霊が塚の中から一瞬現れ....
この場面で亡霊を登場させるかどうかで意見が対立したということ。
両方の演出をやってみて、良い方を採用しようと言う事になり、、、結果は元雅のプランが今に残ったと言うこと。
隅田川の鑑賞した芥川龍之介の随筆は青空文庫でも読めますが、この時は子供が登場しない演出だったらしい
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