2021年3月15日月曜日

神聖喜劇の世界

 




春の一枚




大西巨人さんの「神聖喜劇」なる傑作小説の形式論理の大伽藍の白眉は

知りません
忘れました

なる弁明の辞の衒学的追求である。
論理学の教科書が小説形式で読めますし、漫画版もありますが...逆に読み難い。
別にこの小説を読んでいたからではないが、
口以外どこも悪くないある中間管理職の部下支配・統制の要諦のひとつがコレ。
なんて言えば、恐怖支配と思われるそうですが、優れて寛容で優しかったと言われていた。



失敗なんか恐れちゃダメだよ
誰だって失敗しますからね
でも、同じ間違いは二度やらないでね
経験に学べないのは痴愚魯鈍と同じですよ

こんな感じ....(笑)


この小説の帝大法学部中退の主人公は、
内務班長の「知りませんと言うな!忘れました!と言え」との
指導に対して博覧強記の全てを駆使して
激しく抗弁するのです。

平たく言えば...

知りませんは、教えられていないの反語表現です。
従って、本人よりも指導サイドに責任が転嫁されます。

上司無答責原則からすれば、これは非常に困る。
しかし、忘れましたであれば...教えたのに忘れた、つまり覚えていない方が須らく悪い!
同じ趣旨の話は孫子にも登場します。

間違いや失敗はいつも誰にでもあります。すっきりと過誤を認めて頭を下げれば済む話しなんだが、ウダウダと責任回避あるいは責任転嫁を試みる、誘導する。
さて、法匪のような口の悪いこの中間管理職も
この法理を現代的に運用していました。
知らない事についての責任は負いますが、
忘れた事までの責任は負えない(今時ならば、責任は痛感しても責任はとらないということ)

間違いや失敗が生じた際の「反省会」の追求はこの一点に尽きます。

知りません...とは言わせず「忘れました」に追い込む。



しかし、何をもって「知っている」と言えるのか
簡単です。

社則(たったバインダー四冊)
文例集(文書や資料作成標準で文庫一冊程度)

コレだけを覚えてくださいって猫なで声で、日夜
言い続けていればいい。





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