日本古典「文学」ナンタラ集なるもの、その編成が編纂者の見識なりが問われると言うか実に面白い。
日本という以上守備範囲は明解そうなんだが、アイヌなり沖縄の文学を取り上げるかどうかは悩ましい。が、この辺りは機微だからアタシは深入りしない。
古典は概して江戸期以前だが、明治初期あたりまで含めることもある。
文学とは「言語表現による芸術作品」のことだと言われるが、芸術は「作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動」だそうですから、、、段々に概念規定が摩訶不可思議になっていく(^^)
一体なにが言いたいのだ?
アタシが「古典」を読む際は、さしたる意味はないのだが、やはり権威の岩波(^^)
俗に言う古典文学大系と新古典文学大系を読む。無駄かもしれないが両方をもっているのもある。
太平記は「古典」と「岩波文庫」。これは理由があって「新古典」には収録されておらず「古典」の方はカタカナ表記で読み難いという単純な理由。
しかし「新古典」に太平記が収録されていないとは由々しきはなしだ。
古典叢書において、平家物語と太平記は双璧だし、後世の武士や読書人は太平記注釈書である「理尽抄」は必読だった。
古典叢書で編成から源氏や枕を外すなんてあり得ないのと同じ。
宝井其角のように「平家なり太平記には月を見ず」と批判する向きもあるが、、、つまり情緒も風雅もないのだとさ(^^)
論点は単純
文学ですか?史書ですか?ってこと。
古典叢書ではこのあたりが曖昧です。
「新古典」では古事記や日本書紀を外しながら續日本紀を収録しています。これは公式の史書であり文学ではないことは明らかなのに......
穿った解釈ならば、藤原一門の捏造史書だから文学的だと暗に示唆している?
まあ、平家には月があり、太平記にはないってまあそうだろうとは思いますから、太平記は「史書」だとして外されたんだって事にしておきます。
確かに太平記はある種のリアリズムがあります。
武士と言えども所詮は武装農民。義や理だけで生きているわけではない。やはり命は惜しいし利も大事。
太平記前半の山場は鎌倉合戦。
北条高時以下一族郎党枕を並べて壮烈なまでに自害。
その少し前、武勇無双と言われる若武者、島津四郎。高時から直々に賜った名馬に跨がり、新田軍に単騎攻め込み奮闘すると思いきや、、、「馬よりおり、兜を脱いで降人になり、源氏の勢に加わりける」
なんとまあ、衆人環視の中で恥ずかしげもなく寝返るかねえ(^^)
また別に
主君の塩田入道に自害を勧める狩野重光。
塩田親子が切腹して果てるとあとを追うと思いきや、主君の鎧太刀やらを剥ぎ取りそのまま逃亡
こんなエピソードは平家物語にはまず無い。
まあ、滅びの美学がテーマとは言え、あまりに文学的な美化が激しい。
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