驕慢とは彼女の為の言葉。
誰もがアタシを崇拝し、靡くのが当たり前
しかし、勝手一人想いのアシュレーに振られ、当てつけにハミルトンと電撃結婚。
愛してもいない結婚だから早々に死別しても哀しくもなんとも、、、、しかし勇敢な戦傷死ならまだしも戦いの前の病死。
銃後の寡婦としても肩身が狭い、、、なんて身勝手なことしか考えないのは、けだし彼女らしい。
でも、南北戦争では未曾有の人的被害が発生し(20世紀以降の累積戦死者数をまだ上回ります)病死も決して「珍しく」はなかったようです。
一般的に戦争に於いては、華々しく散兵戦で花と散るよりも、病死や(これは倭國固有だが)餓死の方が
遥かに多かった。
あちこちに色んな数字が溢れていますが、文責あきらかでないので、加藤陽子先生の著作からの勝手引用。
日中戦争以降敗戦までの軍人軍属の死者数は230万
推計だが、その六割が広義の餓死
さらに岩手県だけが公表している年次別死者数
日米開戦以降の1942年 1200人
1943年 2600人
1944年 8700人
1945年(0815迄)13000人
それ以降 3000人
サイパン陥落が1944年7月(東條内閣崩壊)
加藤先生はサイパン陥落がかの戦争の分水嶺であり、絶対国防圏が破られた事で東條英機も退陣に追い込まれたと断じます。
凄惨な餓島の戦いや、無惨なミッドウェイ海戦はアクション映画の素材でしかないし、東條内閣はよく戦ったというか、爪先に火を灯す様にして蓄えた国力の根こそぎ食い散らかして退散。
言ってみれば、白旗を挙げる最後のチャンスだったのがこの時。ヒロシマナガサキが白旗のトリガーではなく、冷静な判断ならばこの時が無条件降伏をするときだった。
岩手県の統計から推論すれば、人的被害の八割程度サイパン陥落以降ですから、、申し訳ない言い方をすれば犬死とも無駄死だったということ。
ところがねえ、、、囲碁将棋ならば投了の形に拘るのは解らんでもないし、政略的には「一撃講和論」というのだが、起死回生のカウンターパンチを決めてから、、、、実際は、後はズルズル。
ポスト東條の組閣の経緯や内閣のガバナンスをみても
とてもじゃないが、講和とか戦争なんて大事業がやれるようなていたらくではなかった。
グダグダ言わずに、米内光政に任せれば、、、あるいは帝が鈴木貫太郎の指名を明言すれば良かっただろうか?
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