2025年開催予定の舞浜万博が、70年の千里万博の夢再現となるかどうかは判らない。64百万人の入場者なんていまは想像すらできない。高度成長の時代のシンボルとして歴史に名をとどめますが、さらに遡るに、1903年に内国勧業博が開催され、五百万人の観客を集めたといいます。過去四回の博覧会が百万人程度の動員であったことからしても、海外からの出展に成功したのが、勝因だったようです。
開催地は、大阪のディープサウスの西成あたり(まだ大阪市内ですらなかった)
これを契機にあの界隈が紆余曲折ながら発展することになった。どの程度の跡地利用計画だったか判然としないが、東半分はパブリックスペース。西は民間払い下げとなり、ルナパークなるテーマパーク(アメリカのコニーアイランドの遊園地風)と凱旋門の上にエッフェル塔を継ぎ足したような通天閣(初代)が華々しく開業....
これらのプロジェクトが早々にオオコケしてしまい、猥雑で下品な蓮っ葉繁華街に堕するにあまり時間を要しなかった。先発の街中の歓楽街が火事なんかで被災すると、そこいらの住人が流れ込んでくる。
いまや、チャイナカラオケタウンやら星野リゾートの新業態ホテルとかで様変わりしつつあるが、舞浜との相乗効果はよくわからない。
確からしいことは、危険で淫靡な空気が希薄になることだけだ。実に哀しい。
因みに、天王寺公園の美術館は、アタシが御奉公した御当主の本宅の跡地です。元来は市内鰻谷あたりにお住まいでしたが、天王寺にお引越し、美術館建設計画を知るや、そっくりと敷地を寄贈され、阪神間の住吉に転居されました。
大正末期の頃ですから、界隈の風紀紊乱極まれり...って事で早々に逃げ出したのかも。
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