2020年10月20日火曜日

阪田三吉...或いは坂田三吉

 



その当時は漢字表記なんてええ加減ですから、どっちが正確か判然としない。戸籍上も混乱しており、除籍謄本では「阪」らしいので、普通は阪田。

在野の将棋名人として有名になったのは、北条秀司の戯曲による辰巳柳太郎の新国劇や坂東妻三郎の映画版、極め付けは村田英雄の楽曲のおかげ。

よくある話だが、その頃には市井の片隅で困窮の果て世間から忘れ去られて世を去っていました。

しかし、今時カラオケハウスで歌うのはヒルカラ族な年寄だし、舞台にこの作品がかかることもなく、映像化だって、あまりに古風すぎて、誰もリメイクを考えない。


この名曲は西条八十の歌詞なんですが、かなりな改変が見られます。まあ事実のままだとお話としては面白くないのはありげな事。

「うまれ浪速の....」

阪田は大阪生まれでなくいまの堺市の生まれ。浪速とは摂津国の東成、西成辺りであり、単に居住地であるというだけ。堺市は和泉国です。

「愚痴も言わずに 女房の小春」

妻の名前は創作で、本当はコユウだった。

どうして小春にしたのかは分かりませんが、近松の心中天の網島から商社マンと心中した新地のホステスの名前を借用した....らしい?

「明日は東京にでていくからは...空に灯がつく通天閣」

何がなんでも勝たねばならぬ...と上京したって、大阪人の琴線に触れる名文句なんですが、いつの上京のことかは判らない。初代の通天閣があった頃なら何時でもいいが、映画や舞台だと晩年の阪田のあばら家から通天閣のネオンサインが見える...

初代通天閣は1940年代に火災で解体され、再建されたのはその十年後。

阪田の晩年には通天閣はなかったはずだ。

そんなことよりも、通天閣のネオンサイン権を日立グリープが持っていることが、つくり話なんかよりはるかに面白いが、初代の頃の広告権はあるオーラルケア会社がお持ちだったようです。

関西地盤の会社は何をしていたのだろうねえ。地盤沈下はもうこの頃から始まっていたのですよ。


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