2020年10月19日月曜日

大正史録....平和への失速




 シベリア出兵について知識がないので、児島襄氏の首記の書籍を拾い読みした。

シベリア出兵関連本はあまりなく、あとは高橋治氏の派兵くらい(残念にも未完)

児島氏の著作は大正時代史ですが、通常遠景でしかない当事件をセンターに据えた所が慧眼。

大正期は、1912年から26年まで

主な出来事と言えば...

14年 WW1勃発

17年 WW1終了

18年 シベリア出兵開始

18年 ベルサイユ講和会議開催

21年 裕仁摂政就任

22年 ワシントン軍縮会議開催とシベリア撤兵


建前として大正天皇の君臨と統治は、長からぬ15年間の内十年足らずであり、欧米諸国と同じタイミングでドイツに宣戦布告をし、ドイツがへたれば、ソ連を相手に....皆さんが矛を収めても居留民保護とかなんとか...八年余りも干戈の響きがやむことのない時代だったということ。その意味では「失速」はおろか「離陸」も危うい時代と言うべきかも。

シベリア出兵自体は連合国全体としての国際的介入であり、赤化ロシアの防波堤たる「大義」らしきものがあったが、その後の皇軍の展開はなんとも各国の疑念をかき立てる小児病的所業。

日露戦争時に、バイカル湖まで占領せよ!と獅子吼した帝大教授戸水寛人の妄言(政治的成熟に乏しい細民を扇動し焼き打ち事件なんかのきっかけでもあった)を再現するかのようにシベリア奥地まで侵攻したり、後年の満洲傀儡国家建設の予行演習をくわだてたりとか....

少なからぬ英霊は報われず、国帑も十億にのぼった由。

ワシントン軍縮会議の成果はそれなりにあったとされるが、各国とも先立つものが乏しく、軍費倒産の危険に怯えただけの事でしょう。

やっぱり分不相応に財をもたすと災いを生む。


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