2022年11月4日金曜日

長嘯子のこと

 豊穣な文藝の土壌も段々に朽ち果て、狗も横向く三十一文字の世界。

勅撰和歌集も、十世紀はじめに始まりとうとう、、、、



世に言う「二十一代集」ですが、和歌集の命名からして(誰の命名ですかねえ?)芸がない、、、、というか、惰性か慣性の世界。

知りませんでしたが、番外の「新葉和歌集」は南朝で編纂されたものだそうな!

皇位、年号といずれが正統か?大論争をやった訳ですが、この辺りはどう整理したのかな?

多分出来栄えがあんまりだから歌学の世界では歯牙にも掛けないのでしょうなあ(^^)


貴族社会が文藝の担い手で無くなっても、倭哥(やまとうた)の伝統は絶えるものでなく、、突然変異的としかいいようのない才人が登場


木下勝俊(16から17世紀の尾張あたりの武将)

秀吉の義理の甥(寧々の兄の子供)だというから出自からしても歌才抜群にはプチビックリ。

定家を範とした正徹の和歌に習ったそうですし、彼の歌風は芭蕉にもつながる、、、と言われますが、この辺りはよく知らない。

しかし当時からすれば斬新で保守歌壇から相当非難さるたんだろうなあ


若くして武家社会に愛想がついたか嫌気がさしたか、、西行(元は佐藤義清なる有力な武士)のように出家はしなかったと思いますが、サッサとリタイヤ。寒村陋屋で歌道三昧の日々。中世から近世の「世捨て人」って清貧には縁遠く暮らし向きは結構贅沢で優雅なんですよ。

勝俊も叔母さんがあの北政所ですから結構な仕送りを貰っていたようです。

浪費や贅沢の上に文化が花咲くってよくわかります。


勝俊あらため木下長嘯子(異名は挙白)


ウィキには彼の和歌がいくつか掲載されていますが、、、、「選球眼」を疑いたくなる(^^)

まあ、これなんかは長嘯子の心情が垣間見えますが、

呑気ながらもけっこう屈曲していたみたいな


  • よしあしを人の心にまかせつつそらうそぶきてわたるよの中  


アレコレ極私的審美眼を見せびらかすのも品位に欠けますから、季節を反映してこの一首



はるの世のみじかき夢を

呼子鳥

覚むるに枕を うつ衣かな(挙白集 秋)


ショウワの頃だって廃れていたと思いますが「砧」なるもの

この浮世絵のように生地を木棒で叩き滑らかにする夜なべの仕事。アイロンの登場で消えたらしい。

砧は秋の季語ですが、限りなく晩秋から初冬

呼子鳥ですが、なんとも奇々怪界な存在。鶯とも杜鵑とも郭公、あるいは猿かもしれない。

熊楠先生ですらお手上げ(^^)

古今伝授の中の秘伝らしいが、、、ある意味馬鹿馬鹿しい。「......猿にしておけ、呼子鳥」なんて俳句までありますが、これも初句が諸説芬々。


長嘯子の適度に縁語掛け言葉を交えて機知めいた作品つくりが、一首の中に四季を織り込んだ、、、と思うならば、呼子鳥は初夏らしい郭公。


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