御子左家の人々みたいなはなしを書こうとして、あちこちを拾い読みをして気がついた。
皇位継承の基本ルールは「父子相続」だとされる。
アタシは「子」と書いたが、必ずしも「男」を意味しないし、応神帝以前には兄弟相続が多く見られるところを見るに古法は兄弟相続だったのかもしれない。
一方でなにかと紛争や紛糾を巻き起こした事例も多々あるが、神話的世界のはなしだから略しますし、武家社会はたくさんありすぎる。
けだし、兄弟は他人の始まりなのですよ
毛利元就の三本の矢の遺訓だって、兄弟が当たり前のように力を合わせて仲違いをしないならばあんな空々しい事はしなかったに違いない。
歴史時代以降の皇位継承だけを例にとれば......
天智天皇から天武天皇(壬申の乱)
後深草帝から亀山帝(南北両統鼎立)
いずれも国のかたちをかえてしまうような大事件。
別に兄弟に譲らなくても皇子や皇女はちゃんといたんですよ。
だっから.....あとは言わずもがなだな(^^)
さて、御子左家の定家。
長男は歌才なく次男の為家が家業を継承。若い頃は和歌よりも蹴鞠に没頭し、定家を嘆かせたがなんとか流派を維持。
その次の代以降で、三つから四つに血脈分裂。
保守本流の二条家は断絶
京極家は後述しますが、、、最後まで生き残ったのは上冷泉家。
明治帝にくっついて東下りなんかやっていれば、震災と空襲で定家以来の貴重な古文書は灰になっただろうが、京都に留まったことが幸いしました。
定家の家系は華族様の家格ならば伯爵。
倭国の華族なんかなんの役にたったのか皆目解らないが、少なくとも王朝時代は、政治は儀式でありその儀式をつつがなく挙行することが重要な公家の役割。併せて家業の継承。つまり彼等は芸者にして宮廷官僚である。政治は儀式といったが、無論司法機能やら官房機能もあった。
京極為兼は歌芸者の第一人者であると同時に実質的な人事部長として権勢をふるったが、、、禍福はあざなえる縄の如く....流罪の憂き目
歌業の評価は高いらしいが、、、よく解らないから改めて
春のなごりながむる
浦の夕凪に
漕ぎ別れゆく舟もうらめし(風雅集 春下)
To be continued
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