2022年4月20日水曜日

歌道三國志

 王朝和歌史上における定家の立ち位置は「百人一首」の編纂の功罪をもって決まり手とする。

カルタ取りなる稚戯ながら古典に親しむヨスガとなるも、さしたる理由もなく採用されなかった歌人は歴史の中に消えてしまい、あまつさえ定家の選歌以降の歌人は顧みられる事もない。

足利義尚もアタシと同じように考えたからかどうかは解らないが「新百人一首」なる私撰集を編纂していますが、落穂ひろいの出来栄えは、、、どうなんでしょう。

選ばれて然るべき名歌人ばかりかどうかはなんとも言えないが、、、


源順

源三位頼政

宮内卿

俊成女


このクラスはそもそも定家が落選させたのがなんかの間違いだと思うし、鴨長明をひろい兼好法師を落とすのは、恋文代筆の失態故かしら(^^)

でも、御子左家の三派歌壇の総帥である


二条為世と頓阿

京極為兼と永福門院

冷泉為相


を落として彼等の祖父なり父の為家で代表させるようでは歌人の目利きにかなり問題がある。



定家から為家、、、と続く歌壇の保守本流は為家の子の代で「争族」勃発

三分裂した流派は三国志演義を絵に描いたように主導権争いを繰り返した。

この時代の勅撰集の編纂は二条家が握っていたようなものだが、玉葉集と風雅集は京極家がもぎ取った。

新古今以降の勅撰集で詠むに耐えるのはこれらだけといわれます。

歌の質もあるが、一時期ながら京極家がヘゲモニーがとれたのは京極派二代目の為兼の政治力にある。この時代は皇統両立であり持明院統の政権に属した地の利もあった(二条家は大覚寺統)

しかし、藝術が政治に翻弄されるとロクなことにならないのは歴史が教える以前の摂理。

結果として、あまりチョコマカせずに相伝の古文書の維持管理にだけ精を出した冷泉家だけが断絶もせずに今に残る。

大層な歌人を出したとも思えないが、伝統芸とは継承することが一番大事だという事。

上冷泉家の御当主はいまや25代目


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