2022年4月23日土曜日

橋本治の近代文学論

 




有り余る才能を食い散らし生き急いだように世を去った橋本治氏
江戸文芸(歌舞伎や文楽)の批評の鋭さは言うに及ばず、王朝古典の咀嚼力にも三歩下がる、、、

なんとも極私的な褒め言葉(^^)
その彼が近代日本文学について語るならば、食わず嫌いなアタシも拾い読みくらいする、、、かなあ



19世紀の西洋文学のトレンドは「自然主義」

ありのまま、、、つまり写実。

西洋のものをなんでも、、、とりわけおフランスならばって事で無批判的に受容した倭国の文藝。

子規が影響を受けたかどうかはしらないが、流れは同じようなものだ。


言文一致体もっていうのが文学史の定説なんだが、異を唱えるほどの学識はないから「色んな見方ありますよ」という程度で、、、、

このテーゼの前提は、近世以前は話し言葉と書き言葉は別物という事だが、エビデンスがあるのかね?

レディムラサキや兼好法師がどんな日本語を喋っていたか誰も知らない。

しかし江戸期の戯作なんかは既に殆ど言文一致だし、文献的実証が出来ないのですが、、アタシの仮説は


江戸期には既に標準語が存在し、それは謡曲の文章であった


能は武家にしか許されなかったが素謡は町人の嗜みでもあり、一定レベルの武家や町人ならば当たり前の素養(昭和のサラリーマンの三種の神器....ゴルフカラオケ麻雀なみ)であったはず。でないと薩摩と津軽のお武家はどんな言葉でコミュニケーションをとったのだ?

つまり、シテとワキの問答みたいに会話をする、、、これを言文一致といわずに何というのか


それに、話芸の宝庫の倭国。

落語や講談の詞章なんかをそのまま書き写した書物もあったはずだ。有名所は円朝師匠の「真景累ヶ淵」

彼の口演筆記本がなければ、言文一致体の成立には困難を極めた、、、というか、文藝のヒエラルキーの頂点にあぐらを描く小説よりも遥かにこの落語本の方が面白い。



To be continued 

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