いつの頃からか、、、耳障りな「自虐史観」なる言葉が氾濫するようになった。声高にことあげするのは史学の素人ばかり。歴史の専門家でなくても史論を語っても苦しゅうないが、専門家の多くが「無視」するにはそれだけの理由がある。
歴史法則のひとつに「進化あるいは進歩」がある。
ヒトザルの歴史が進化進歩してきたのかは実に疑わしいものの、中華の正史がまさにその法則に従う。史的唯物論もまた然り。
従って、過去を批判的に乗り越えて行くのは歴史の公理ともいうべきもので、殊更に「自虐的」なぞとは、特定の史観を批判的否定的に断罪するメディア用語に過ぎず真っ当な社会科学概念とは思えない。
同じような史的論争が他にもあるのかどうかは知らないが、多くは東京裁判史観の言い換えに過ぎない。
自虐的とは「自らを責め苛む」事だが、精神医学の世界では、ある種の過剰反応であって「不幸の先取り行動」だとされる。あらかじめ小さな不幸を甘受し、逆に大きな不幸を回避する狡猾な思考。言葉のイメージとはかなり実像は異なる、、言ってみれば偽悪家。
本人は罵倒しているつもりだろうが、言われている方は「小さな不幸」程度にしか思っていない。
だから歴史論争として噛み合わないし議論の深まりもない。
むしろ「被虐史観」と呼べばよかったのよ(^^)
自虐と被虐は明らかに違います。我が身を苛むことには変わりがないが、苛む事で「快感を覚える」かどうかという大きな違いがある。
自分の過去の不幸に思いを巡らして興奮や快感を覚える史家や歴史教育と言われれば、、、それは噴飯ものであり、健全な精神ならば到底受け入れない。
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