美学論の歴史的な展開を考えるに(なんとも大袈裟な....笑)
定型表現としての「秋の夕暮」は、十世紀の古今の時代には言及されることも無く、十一世紀の枕草子で発見され、新古今の時代では月並以上に一般化した、、、なんてことは以前に書きましたが、その発展系が今日のお題。
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王朝和歌集は、四季と恋歌に尽きる。
それも、春秋と失恋あるいは破恋
後者は後にしますが、今よりも寒冷であっただろう中世においても、歌題としての夏冬は貧相な風景だったようだ。
しかし、温暖化とやらで春秋が短いなり、冬が無くなり夏ばかりになれば....季語いのちな俳句は言うに及ばず、和歌の世界も壊死するかもしれない。
いやいやさにあらず(^^)
美意識の「家元化」には必ず天邪鬼みたいな反作用が現れて新しい美学を生み出す。
なんのテクニックもないサラリと書き流したようなどってことのない一首です。
春の夕暮れだって捨てたもんじゃないのよ、、だとさ
読み手の盛名と最初に言い出したオブジェクションだから、名作とされるだけです。
あの在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば、春のこころは...」なる戯れ歌とおんなじ。
どうせなら、この一首のほうが遥かに出来栄えが素晴らしい
薄霧の 籬(まがき)の花の 朝じめり
夕べはあきと たれか言ひけむ(新古今 藤原清輔)
秋はつとめて(早朝)が夕暮れよりも味わい深いと。
春の夕暮霞も悪くはないが、こちらの方が、、上の句の清冽なる風景の気分が実に素晴らしい。
さしたる歌名でもなく、あきと春の対比を「冬はつとめて」を絡めてのひねり技は、凝りすぎと思われ....教科書には採用しにくい。
作者は平安末期十二世紀の歌人で、御子左歌学派(藤原俊成)と対立。それなりの歌人ながら百人一首にかろうじて収録されています
なんとかかんとか 憂しとみし世ぞ いまは恋しき
不遇だった人生と想像できます。
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