毎度の鬼面ヒトザルをしかめっつらにさせるイントロダクション(^^)
ジャックリーチャーシリーズの第一作
特段の感動はないが、ご贔屓のロザムントパイク様がヒロインだし、、、どうでもいいエピソードが気にかかる。
連続射殺犯容疑のイラク帰還兵。
腕のいいスパイナーだが、実戦の機会に恵まれず毎日数限りない試射だけの日々
煩悶のなかで精神が病まなければどうかしている...
ピアノのお稽古も素謡でも、発表会があると思えば、根つめて衣装もまとい真剣に練習もする。
目標のない(みえない)練習なんて無意味だし、成果も出る訳がない。
予定されていた舞台が何度も延期され...やっと渋谷で開催の運びとなった。
春の演目を晩秋とは異例だが、致し方ない
隅田川と言う能楽の名曲があります。
ジャンル的には「子別れ狂女もの」
行方不明になった我が子を気も狂わんばかりに探し求め...仏の功徳で無事再会し....後世は幸せに暮らし....たかどうかまでは演じられないが、能の御約束通りハッピーエンドに終わります。
しかしこの「隅田川」は悲劇です。
演劇論での「悲劇」とは意味合いを異にしますが、紅涙を絞るような哀しいおはなし。
伊勢物語の隅田川の渡しのエピソードを上手くあしらった一幕三場もの
演劇論ではギリシャ悲劇と能の比較論が語られますが、、、天を仰ぎ我が身の不幸を訴えるギリシャ悲劇に対し地に向かい呪詛を呟く能....とかなんとか
ウケ狙いの対比に過ぎないし、上を向くか下を向くかは劇場の構造による。
ギリシャ悲劇の言う「悲劇」の特性とは....
不幸の連鎖、、単に不幸だけならば悲劇とまでは言わない。良かれと思った事が裏目にでて、そのリカバリーがさらに裏目になり、どんどん奈落に落ちていくカタストロフ、、、
だと三島だか蜷川が言うとりました。
誰でもいいが、けだし悲劇とはそんなものであり、斯様なエレメントは能にはない。
倭の文化ならば、この悲劇性の極致を様式美満載に描いたのが東映の「総長賭博」
これを超える任侠映画はない...とキッパリ!
が、オールタイムベストからは無視されています。
本当に、、◯◯◯千人にめあきは僅か(伏せ字にする方が差別的なんだがなあ.....)
そのうちに「気の触れた女性を登場させる演目」はマイノリティ蔑視や差別だとジンケンハが騒ぐだろうかもしれないなあ...と幕間の戯言で論旨を戻します。
この作品は、世阿弥の息子さんの元雅の手になるが、演出方法をめぐってかなりな諍いがあり、不和確執の遠因とも言われます。
人買いに拐われた我が子が既に亡くなったことを知りますが、悲嘆に暮れ南無阿弥陀仏の読経を行なっていると、我が子の亡霊が塚の中から一瞬現れ....
この場面で亡霊を登場させるかどうかで意見が対立したが、両方の演出をやってみて、良い方を採用しようと言う事になり、、、結果は元雅のプランが今に残ったと言うこと。
しかし、宝生流の隅田川を鑑賞した芥川龍之介の随筆は青空文庫でも読めますが、この時は子供が登場しない演出だったらしい。
シテの狂女(母親)は姉弟子がつとめます。
アタシはワキ(渡し船の船頭)ですが、この世界では非常に重い役柄とされます。
アタシごときでは荷が重い。
拐われた子供の末路の思い出語りを荘重に悲劇的に...でも神田松之丞のように過度にドラマティックにならないように....かなりな時間の独白が聞かせどころ(上手く出来ればのはなしで、平板下手だと爆睡しそうになります)
毎度の舞台前の練習は、謡よりも着付けと正座。
馬子にも衣装だし、所作の巧拙は見れば誰でもわかります。肝心の謡は.....これも先に書いた通りかなり難物なんですが、普通は間違えても観客はわからない(^^)
所詮は脇役。
主役を立てなあきませんし....
かといってスポットライトも浴びなあかんし(^^)
死ぬ程暇で怖いもの見たさならば、渋谷迄足をお運び下さい。
月末日曜日の12時半から
渋谷セルリアンタワー内の能楽堂です。
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