王朝和歌の定型句と言えば....子規ならば唾棄し罵声をあげそうな「秋の夕暮」に如かず。
毎度の清唱千首(塚本邦雄撰)は、秋部がなんと二百七十首あまり。
その中の「秋の夕暮」を五句目にもつ和歌を並べてみた。
この手の和歌の構造はある意味で単純
上の句の十七文字で、ウンチャラカンチャラと情景なり叙情を語り
四句目の七文字でズバリと総括し
五句目は舞台装置の念押しで実のところ、、、あまり意味はない。
つまり「四句目いのち」なわけでしてあとは序詞か枕詞あるいは置字程度でしかない。
天の河原の(新古今 式子内親王)
袖ほのかなる(後土御門帝)
袖濡らしける(藤原為家)
ながめてけりな(新古今 良経)
浦の苫屋の(新古今 定家)
なほ色まさる(新古今 良経)
消えてもの思ふ(続拾遺 葉室光俊)
秋の心に(千五百番歌合 寂連)
思い消ちても(肖柏)
伏見の里の(源俊頼)
枕の下の(六百番歌合 慈圓)
尾花波寄る(源俊頼)
鹿鳴く野べの(六百番歌合 良経)
秋部の数が多いとは言え結構な数になりました。
アタシの極私的な解説が普遍的かどうか自信をなくしかねないのですが、理屈と講釈はなんとでも(^^)
事例として「浦の苫屋の秋の夕暮」の倒錯的解説を試みれば.....
教科書的には上の句「見渡せば、花も紅葉も なかりけり」なる異様な情景が鬼面人を驚かしめることに着目するのが定番なんだが、これは単なる序詞。
虚無の世界そのものをみせつけることにより、四句目の「浦の苫屋」というみすぼらしく古びた陋屋の廃墟美が黄昏れる秋に浮かびあがるのです。
実に凄愴としかいいようがない世界
もっとも異端の解釈だから、試験問題の回答例の参考にはしない方がいいですよ(^^)
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