特段、徳川体制だから諸侯に格差をつけたり格付をした訳ではない。
これらは統治の基本スタイルであり、とやかく言っても始まらないが、かくもあれこれとなれば、一言揶揄めいた事を言ってみたい。
山川日本史的には「親藩・譜代・外様」なる徳川宗家との縁により区別がつけられて、石高なる擬制的な経済力やらで位置付けが決まる、、、間違いではないが、そんな単純なものではない。
誰が絵を描いたか知らないが、実に巧妙な仕組みなり運用だってことはよく分かります。だから二百数十年の命脈を保ったのです。
基本は単純にして実際は言うに言い難い運用の例外を散りばめ、弾力的に位置付けを上げ下げする、、、コレが治世の要諦。
まずは「石高」なる擬制。実際のコメの生産量とは無縁だし、開墾成果で数字は変わるし、経済力はコメだけでは測れない。
はやい話が「格式」であり、証券取引所の「ゼロイチ」名柄みたいなもの。しかし、なにかにつけてこの格式がものを言う。
参勤交代の供揃えの人数だって、、、加賀百万石は規定上は数千人!そんな馬鹿な事をやる訳はなく、国境までと江戸入府以外はキセル。つまり供揃えの大半は日雇派遣労働者だったってこと。けだし格式なんて虚名の極みだとよくわかります。
しかし石高が多いと拝領屋敷の面積が広くなります。無償の地面をたくさんもらっても上物建設は自腹。
江戸期の土地配分からすれば、武家地が七割、あとは寺社地と庶民のエリアで半分づつ。かなり不効率だと思いますが、この仕組みなかりせば、東京の緑地は壊滅的だったはずだから、少しは有難いと思うべきだ。
無論、究極の格式は宮中の位階である。
御三家と言っても、たかが中納言程度だし、最大の石高の加賀前田家もそのくらいだったはず。
なんで読んだのか記憶が曖昧だが、藩内に時国館がある。
大納言平時忠の末裔の居所。
ある時藩主が立ち寄ったが、奥の間の造りが大納言仕様だったもんで立ち入るのを躊躇したって書いてました。
名家の末裔なる自負たるや、、、ロッキード裁判で田中角栄に毅然と有罪判決を出した事で左遷の憂き目をみた時国康夫裁判官は、この一族と言われるが、、、よくわからない。
0 件のコメント:
コメントを投稿