あまり母校ネタの駄文を書かない。
駄日記のかなりな部分が口から出まかせな戯言だから、事情を良く知るOB読者にバレバレになります(^^)
アタシの母校には、、、アタシの母校に限らずだが多くの大学には「第二◯◯学部」が存在した。社会人学生の受皿としての夜間学部である。
しかし時代の変化やらなんでしょう、、、我が母校には「社会科学部」なる昼とも夜ともいい難い時間に授業が開始される学部が1966年に開設され、政治経済、法学、商学の各第二学部は新規入学を停止した。しかし学部が正式に廃止となったのは1973年だったらしい。
社会人が八年近くも学生さんと二足の草鞋を履いているはずがないので、地下に潜った活動家の巣窟化していたのかもしれない。
それを知ったのは、革マル系自治会と大学当局の団交の席だった!
今でも一部の大学に夜間学部があるらしいが、かの旧帝大、それも赤門に「第二工学部」があったとはつゆ知らず、、、コレが今日のお題
今の千葉大の稲毛キャンパスあたりにあったらしい
ことの発端は大本営作戦参謀の石原莞爾。総力戦戦争には精神論よりも科学技術力。大量の工学技術者なくして最終戦争に勝ち目はない。
さすがに天才の発想、、、というか当たり前。
なんだかんだあって、当時の赤門の総長は元軍人であり腕力で新学部の設置を強行してしまった。
だから、第二というのは単に「二番目のキャンパス」というだけで夜学ではない。
入試も工学部全体でまとめて実施され、適当に第一と第二に配備されたから質的な差異はない。
戦後の経済界に錚々たる人材も送り込んでいます。
それよりも「オモロイ」のは、象牙の塔内部の見苦しいまでの暗闘、、、このあたりは、知の巨人の老作に詳しい。
良心的と言われる赤門のレフト系の先生のアコギなことよ!三国志なさがらの権謀術数。
戦後になり、自身の母体学部の勢力拡大のためにこの第二工学部を「戦犯学部」と批難し廃部に追い込んだとのこと。
赤門の経済学部と第二工学部の出身者の戦後復興への寄与度って、、、比較にあまり意味はないが(それは個人の力量だから)今更に述べる事でもない。
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