2022年10月3日月曜日

哲学者にして小説家

 

古市憲寿氏よりも一世代くらい上かな?



見た目は、パンクですが、哲学者にして小説家。


古市憲寿氏も小説家らしいがこちらは社会学者がメインの肩書。社会学ってどんなものか知らないが、メディアに露出してアベラーらしく保守的言動を繰り返す種族のことらしい?


お二人とも芥川賞候補ですが、いまだ受賞に至らず。

あんな賞をもらったところでってアタシの毎度の言い草。

どうせならば、同じく哲学者にして小説家であったサルトルのようにノーベル賞を目指して、同じく辞退して欲しい(^^)

サルトルの辞退理由は明らかにはなっていませんが、、、仄聞するに、哲学よりも「下等な」文学で栄誉を受けることは屈辱であり、俺は哲学で認められたい!という顕示欲の発露のなせる技らしい。


彼の小説は読んだことがないからこれ以上は論評しないが、哲学的言辞にはなるほどって

以下、多少換骨奪胎しての勝手引用です


.....

⬛️ヒトザルの「不安」という事について

何かが失われるから人は不安になるのではなくて、
何かに近づきすぎて『欠如がなくなる』から不安になる。
人間にとって欠如は悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が重要なのだ。
しかし、無限に欠如が広がった状態もまた不安も引き起こす。
よって欠如を一定に区切る工夫が肝要。

現代社会は情報が多すぎて、あらゆるものと距離を取るのが難しい。
欠如が不足しているので不安になる。
接続過剰な状態から逃れるツールも必要。
接続過剰なツールも情報収集のため必要だが、
その中に切断可能な「小島」を作ることが大切...

つまり「何でも欲望を叶えてくれるような多機能なものは、かえって欲望を閉塞させてしまう。
機能を限定することこそが、むしろ欠如の余地を広げるという意味で、欲望を活性化させてくれる。




でも、、、特段目新しい事でもない

蘇東坡の漢詩にいわく


無一物無尽蔵

花有月有楼臺有


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