なんとも毎日がどんよりして湿気は高いし...気が滅入るが、コレも四季折々の風物
しかし「梅」の実の青く色づく頃の「雨」は倭の美的感覚だが、黴の雨といわれると...あまりにもリアリズムがすぎて興醒めます。
五月雨なる言葉は太陰暦的なんだが、今年はGW明け即ち梅雨入り。
六月の異称でもある水無月は逆説的表現だった筈だが、今後はそうで無くなるかも....
清唱千首(塚本邦雄撰)を無聊のままひもとく
梅雨の和歌って...なんかあったかなあ?
万葉集から八代集を総ざらえするの面倒だから、
お手軽に....
結論は、なし!
つゆが使われる和歌は「露」だけ
この時代には「梅雨」なる言葉は使われず「五月雨」の方が一般的だったのかな?
異説に曰く...梅雨はその季節を表し、雨ならば五月雨、あるいは長雨(ながめ)、、、ホンマかなあ?
王朝和歌集の夏の部の風景は貧相だ。
大抵は歌数も少ない。
不如帰に始まり、卯ノ花、橘、杜若(菖蒲)
夕顔、撫子、常夏の花...まるで源氏の世界
で、、この和歌集で「さみだれ」なる語句が登場するのはたった三首。
さみだれの月のほのかにみゆる夜は
ほととぎすだにさやかにを鳴け(躬恒)
→ 単に遠景であり不如帰が主役です。
五月雨に藻屑しがらむ籠り江や
雲水たかし初瀬川上(十市遠忠)
→ 戦国武将ですがよく知りません。下の句に主眼があります。
さみだれに花橘のかをる夜は
月澄む秋もさもあらばあれ(崇徳院)
→ これも詞書にあるように花橘のうた
誰もが鬱陶しくて和歌にしようなんて思わないのですよ。
しかし、最後の崇徳院の歌はおもしろい。
春と秋の比定なんて常套の素材ですし、「ゆうべは秋となにおもいけん」みたいに逆説的に春をもち上げるのは、耽美的少数美學の定番
暗い運命な崇徳院さまは、いささかやげやり...あと野となれ山となれ...(さもあらばあれ)とはお言葉がすぎませんか?
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