2022年7月11日月曜日

伍子胥

 

司馬遷の「史記」列伝の第六話

出番が早いと言うことは、かの「人類の史官」は紀元前五世紀の楚人(今の安徽省)である伍子胥を高く評価したと言うことである。



楚の重臣の家系に生まれたが、讒言にあい父や兄弟は平王により誅殺され、耐え難い苦難の果て呉国に逃れ、、、呉国の力を借りて復讐に成功した。



....始め、伍子胥、申包胥と交わりを為す。

伍子胥の亡ぐるや、包胥に謂いて曰く「我必ず楚を覆さん」包胥曰く「我必ず之を存せん」

呉の兵、郢にいるに及び、伍子胥、昭王(平王の次の楚王)を求む。 既に得ず、乃ち楚の平王の墓を暴き、其の尸を出だし之を鞭 つこと三百、然る後已む。

申包胥、山中に亡げて人をして子胥に謂わしめて曰く、「子の讎を報ずるは其れ以て甚だしきかな。吾、之を聞く、、、



これが「死者に鞭打つ」の語源

あまりの激情にはついていけないと思うのが優しい倭人でしょうが、伍子胥の親友だった申包胥ですら苦言を呈しますから、華人がみんな両手をあげて伍子胥の行いを賛同しているわけではない。


しかし改めて史記を読み返せば、昭王は単に今の楚王であり、伍子胥の父や兄弟を誅殺したのは先代の平王だ。敵討ちのおとしまえには時効はないんだから、墓暴きをやり屍体に鞭打っても奇矯ながらおかしくはない。



以降のおはなしがいわゆる呉越の激闘であり、臥薪嘗胆やら会稽に恥を雪ぐのエピソードの宝庫。

伍子胥は降伏した越王勾踐の誅殺を進言するのですが越国の謀臣范蠡の賄賂攻勢とハニートラップの罠に堕ちた呉王夫差は逆に伍子胥を疎ましく思い自裁に追い込む。



.....然るに今、諛臣の言を聴き以て長者を殺さんとす。乃ち其の舎人に告げて曰く「必ず吾が墓の上に樹うるに梓を以てし、以て棺を為る可からしめよ。而して吾が眼を抉り呉の東門の上に懸けよ、

以て越の冦の入りて呉を滅ぼすを観ん望まざるなり。乃ち自剄して死す。

呉王之を聞き大いに怒る。乃ち子胥の尸を取り、盛るに鴟夷の革を以てし、之を江中に浮かぶ。

呉人、之を憐れみ、、、、



激しい性格は周囲との協調を欠き、やがて自らを滅ぼす事になるのですが、最後の最後までその直情は衰えない。


東から越国が必ず攻めてくる

この眼でしかと呉国滅亡を見てやる

我が眼を抉り出し東の城門の上にかけておけ!



色んな意見があろうが、どんな悪人でも結婚式と葬式では褒めてもらえるし、死ねばどんなルッキングでも美人になれるって、、、武士の情けなんだがあんまり宜しい事でない。

蓋棺なる言葉は、必ずしも誉めることを意味しない。

死んだ後初めて評価が定まるということだし、審判員は「歴史」である。

一部の大政翼賛会的紙新聞なんかはデマゴーグでしかない。これも歴史が裁いてくれます。


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