2018年10月29日月曜日

「知りません」と「忘れました」


神聖喜劇なる傑作小説の形式論理の大伽藍の白眉は

知りません
忘れました

の衒学的追求である。
なんて言えば、辛気臭いから昔話から始めます。
別にこの小説を読んでいたからではないが、
口以外どこも悪くない中間管理職の部下支配・統制の要諦のひとつがコレ。
なんて言えば、恐怖支配と思われるが、優れて寛容だった。

失敗なんか恐れちゃダメだよ
誰だって失敗しますからね
でも、同じ間違いは二度やらないでね
経験に学べないのは、アホ馬鹿マヌケですよ

こんな感じ....(笑)


この小説の帝大法学部中退の主人公は、
内務班長の「知りませんと言うな!忘れました!と言え」との
指導に対して博覧強記の全てを駆使して
激しく抗弁するのです。

平たく言えば...

知りませんは、教えられていないの反語表現です。
従って、本人よりも指導サイドに責任が転嫁される。
しかし、忘れましたであれば...覚えていない方が須らく悪い!
同じ趣旨の話は孫子にも登場します。
今となっては否定されたとされる

無答責の法理

と同根と考えられます。
つまり 権力無責任原則ということ
かつては、国家賠償法すらなかった以上、万事が無答責。

今時点では、憲法の規定にのっとり「公務員の不法行為」に
限り無答責ではないとされます。
不法行為の是非判断次第と言う事ですから、
広くも狭くもなります。


さて、法匪のような口の悪い中間管理職も
この法理を現代的に運用していました。
知らない事についての責任は負いますが、
忘れた事までの責任は負えない。

何をもって「知っている」なのか?
簡単です。

社則(たったバインダー四冊)
文例集(文書や資料作成標準で文庫一冊程度)

コレだけを覚えてくださいって猫なで声て
言うのです。



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