2018年10月27日土曜日

蘭奢待の真実



毎度の秋の正倉院展は・・・・
千里の道も万里の波濤もものとせず、
老若男女・貴賎都鄙が押しかけるさまは壮観だし、
日本文化への愛着心があるうちは倭国は安泰って・・・
しかし、正倉院って、蝸牛庵も含めて誤解まみれですねえ(苦笑)

では、改めて・・・ 
まず「正倉院」とは普通名詞である(あった)。
奈良時代の屯倉(みやけ)という国有資産等のトランクルームに過ぎない。
時代の変化の中で、それらは段々と消滅し、
いまや「東大寺の正倉院」って固有名詞になってしまった。

東大寺正倉院って言う以上、宗教法人の所有物だと思うし、
そもそもが、光明皇后が聖武天皇の遺品を東大寺に四十九日忌に遺贈したのが発端。
ところが、これが御物なんだなあ。
宮内庁の管轄であって、明治の頃、廃仏毀釈のどさくさで巻き上げたんでしょう。
正倉院御物=聖武天皇遺品ってあまりに短絡です。

山川の教科書でなくとも、天平の文化遺産を当時のまま現代に
伝えるかけがえのない宝物って教えてもらうのですが、
当時の遺贈目録によれば、ざっと八百点程度。
しかし、今の正倉院には一万点程度の文物が保管されている。
つまり、遺贈品保管専用庫ではなく、雑多な収納庫に保管されたに過ぎす、
その後、無関係な文物も収納された。

これには、異説もある。
正倉院とは、実は三つの蔵の集合体。
収納品の棚卸がすべての蔵で為されたのかとか、その精度なんかにも
疑惑が多いのですが・・・やはり、すべてが聖武天皇の遺品で
天平年間の収納品と考えるには無理が多い。

入庫があれば出庫もあるのが倉庫の常識
聖武天皇の遺品の内、現存が確認できるのは二百点にも満たないらしい。
千数百年の風雪に耐え、そのままの姿ってまったくの幻想。
聖武天皇の遺品でないと文化的価値がないとは言わないが、
正しい理解をしないとって改めて認識した次第。
私利私欲のために売り飛ばした坊主もいただろうし、
権力者が勝手に押し入り、かすめとった例もある。


まあ、展示物を押し合い圧し合いしながら・・・
しかし、蝸牛庵は、琵琶や碁盤や硝子の器なんかあんまり興味がなくて
ただただ、かの名香「蘭奢待」だけは生きているうちに見ておかないと
死んでも死にきれないし、化けて出てやる。

蘭麝待とも書きますが、多分正しくない。
この沈香(沈水香木)は、黄熟香というのが正式名称らしいが「東大寺」の三文字を
含むように表記するのが洒落らしいので、当然「奢」でないと
雅称として平仄が合わない。
長さ150センチ強で重さは10キロ強。
でも、どんなかぐわしい匂いがするのでしょうか・・・・
沈丁花科なので、それ系でしょうか?
伽羅なんかも沈香の高級系だとされます。

香気軽く清らかにして 誠にかすかの香り有り・・・

明治の頃、香りを聞いた官吏の日記にはこうありますが、
想像をたくましくするしかないなあ。
でも、千年も前である。
百年前でも「かすかの香り」なんだから、いまだと無味無臭の可能性が高い。
視覚や聴覚面での幻視や幻聴はちょっと精神集中すれば出来なくもないが、
幻臭(匂)は・・・・難しい。



さて、信長の蘭奢待切りが有名ですが、切り取ったのは彼だけではない。
多くの権力者が、切り取っているし、東大寺関係者が勝手に
・・・ともいわれる・・・

記録あるいは、推定も含めれば

義満
義教
秀吉
家康  なんかが、そうそう明治天皇も二度ばかり・・・

いわば、覇権達成記念儀礼みたいなものである。
真の権力者のみが、勅封を破り、破片を切り取るのです。


それにこれは・・びっくりですが、天平御物ではない。
源平の戦いで焼け落ちた大仏殿の再建落慶法要の際に収納されたみたいです。
全く外部から納品されたのか、東大寺の他の倉庫から移転したのかは
わかりません・・・が、このころ中国より輸入したというのが有力説。
勉強不足な大マスコミは「天平の香りに思いをはせ・・・」なんて書きますが知性のほどが知れる。
が、まさしく日本史そのものなのです。
国営放送も、毎度毎度、座布団バッジの陳情だか圧力を勘案しながら
ご当地大河(ホーム)ドラマなんかやるよりも、この蘭奢待を主人公に
ドラマを作るほうがはるかに気が効いている。
大仏建立から始まり、二度にわたる大仏殿の火災なんかや廃仏毀釈なんか
も交えると、毎回山場ですよ。


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